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始めないという始まり──磐座という基準点

感じる

~動かないものの前で、年は静かに整えられる~


導入──始めないという選択

年が変わると、人は何かを始めようとする。
新しい目標、新しい計画、新しい習慣。
一年の区切りは、
動き出すための合図として扱われがちだ。

始めることが、
前に進むことだと疑わない。
立ち止まるより、
動いたほうが正しい。
何もしないより、
何かを足したほうが良い。
そんな前提が、
ほとんど無意識のうちに共有されている。

けれど、山に入ると、
その前提は少し揺らぐ。

足元の土は柔らかく、
木々の間を抜ける風は一定の速さを保ち、
音の数が減っていく。

湿った土の匂いが濃くなり、
手袋越しでも、空気の冷たさが指先に残る。

人の時間だけが先走っていたことに、
身体の感覚が先に気づく。

諏訪の森にある磐座は、
年が変わったことを知らない。
新年を祝うこともなければ、
区切りをつけることもない。
誰かの決意や計画に合わせて、
態度を変えることもない。

ただ、
そこに在り続けている。

いつから在るのかは分からない。
なぜ在るのかも、
正確には説明できない。
それでも、
人が名を与えるより前から、
この場所は人の足を止めてきた。

始まりの季節に、
何も始めないものの前に立つ。

何かを足すためではなく、
何かを決めるためでもなく、
ただ、自分が立っている位置を
確かめるために。

その行為自体が、すでにひとつの始まりなのかもしれない。

横谷渓谷にある大瀧神社の御神体。黒曜石の巨石が、磐座として人の立ち位置を静かに測る基準点となっている。
何も始めないまま、ただそこに在り続けてきた石。 人はこの前で、勝手に立ち位置を測り直してしまう。

在るということ──意味を持たなかった石

磐座は、
誰かが造ったものではない。

磐座(いわくら)とは、古くから「神が宿る」とされ、人が祀りの目印にしてきた巨石のことだ。

少なくとも、
意味を与えるために
置かれた存在ではなかった。

形を整えられた痕跡もなく、
意図を示す線も残っていない。
ここに在ること自体が、
目的だったのかどうかさえ、
確かめようがない。

人が名をつける前から、
人が祀る前から、
石はそこに在った。

時代が移り、
言葉が変わり、
人の暮らしの形が何度も入れ替わっても、
石は動かされることなく、
同じ位置に留まり続けてきた。

なぜここなのか。
なぜ人が集まったのか。
なぜ今も残っているのか。

人は後から理由を探す。
地形や水の流れ、
見通しの良さや偶然を並べ、
説明できる形に整えようとする。

けれど、石は答えない。
正しさも、由来も、
確定した意味も差し出さない。

記録が残る以前から、
人はこの石の前で
足を止めてきた。

祈るためでも、
願いを託すためでもなく、
まず立ち止まるという行為そのものが、
ここでは先に在った。

それ以上のことは、
分からないままでいい。

分からなさを、
解消する必要はない。
名前をつけなくても、
役割を定めなくても、
ここに在るという事実だけで、
十分だったのだろう。

分からないという状態ごと、
この石は引き受けてきた。

意味が重ねられ、
祀られ、
語られるようになったあとも、
石そのものは、
最初の沈黙を失わないまま、
そこに在り続けている。

横谷渓谷の森の斜面に広がる落ち葉と笹、苔に覆われた石。人の手が入らない時間の中で、自然と石が同じ速度で在り続けている。
人が数える時間と、石が受け取ってきた時間は、同じ場所に重なっている。

人の時間、石の時間

人の時間は、
細かく区切られている。

年、月、日。
始まりと終わりを定め、
区切りを越えるたびに、
進んでいるという感覚をつくる。

節目を設け、
番号を振り、
前と後を分けることで、
人は自分の位置を把握しようとする。
時間を管理することで、
安心を得てきたとも言える。

一方で、
石の時間には、
始まりも終わりもない。

在るのは、
途切れない継続だけだ。

苔が積もり、
水が染み、
根が絡みつく。

表面はざらつき、苔はしっとりと張りついている。
触れた感触だけが、時間の長さを先に教える。

その変化は、
いつ起きたのかを特定できない。
昨日と今日の境目も、
今年と去年の違いも、
石の表面には刻まれない。

そこに在るのは、
更新ではなく、
ただの積み重なりだ。

壊して新しくすることもなく、
区切って切り替えることもなく、
変化そのものが
変化として意識されないまま、
静かに重なっていく。

磐座は、
何かを始めてきたわけではない。

計画もなく、
節目も持たず、
目標に向かって進むこともない。

それでも人は、
その前で立ち止まる。

時間を進めるためではなく、
何かを決めるためでもなく、
ただ、
自分が流れてきた時間と、
ここに積もっている時間との
差を感じ取るために。

石の時間の前に立つと、
人の時間だけが、
少し浮き上がって見える。

急ぎすぎていなかったか。
区切りに縛られすぎていなかったか。
進んでいるつもりで、
ただ追われていなかったか。

時間を止めることはできない。
けれど、
時間の中に
自分を置き直すことはできる。

磐座は、
そのための速度を、
何も語らずに差し出している。

蓼科大滝へ向かう道の途中にある、苔と木の根に覆われた岩。森の中で人の手が加わらないまま残されている。
滝へ向かう人の時間と、立ち止まらない石の時間。

祈りにしなかった理由

磐座は、
願いを叶える装置ではない。

何かを授ける存在でも、
答えを与える存在でもない。
成功や安全を約束する力が
そこに蓄えられているわけでもない。

それでも人は、
その前に立つと、
無意識のうちに声を落とす。
歩幅が小さくなり、
足元を確かめ、
背筋がわずかに伸びる。

教えられたわけではない。
作法を学んだわけでもない。
けれど、
身体のほうが先に反応する。

ここでは、
何かを頼むより先に、
自分の位置が問われる。

願いを口にする前に、
「自分はいま、どこに立っているのか」
という感覚が、
身体の奥から立ち上がってくる。

磐座がしているのは、
導くことではない。
進むべき道を示すことでもない。
命じることでも、
正解を教えることでもない。

ただ、
測らせることだ。

どこから来て、
どこへ向かおうとしているのか。
何を求め、
何を手放そうとしているのか。

そのすべての前に、
ひとつだけ、
避けて通れない問いを差し出す。

「いま、どこに立っているのか」。

この問いは、
言葉にしなくても成立する。
答えを出さなくてもいい。
正解を選ぶ必要もない。

ただ、
その問いの前に
自分を置くこと。

磐座は、
人に何かをさせない。
代わりに、
人が勝手に
姿勢を整えてしまう。

それは祈りではない。
願いでも、
信仰でもない。

自分の位置を測り直すという、
きわめて静かな行為だ。

石は、
その問いだけを
黙って返してくる。

答えが欲しければ、
自分の側で
引き受けるしかないということを、
沈黙のまま示しながら。

蓼科の森の斜面にある、苔に覆われた岩と絡みつく木の根。長い時間その場に留まり続けている。
水も風も通り過ぎるが、ここだけは留まり続けている。

流れるものと、動かないもの

山には、
流れるものと、
動かないものがある。

雨は降り、
雪は解け、
水は谷へと集まり、
やがて川となって下っていく。
人もまた、
季節に押され、
仕事に追われ、
日々の都合に引かれて動く。

動くことは、
自然なことだ。
止まらずに流れ続けることは、
生きている証でもある。

だからこそ、
動かない基準点が必要だった。

すべてが流れてしまえば、
どこに立っているのかが分からなくなる。
速さも、
方向も、
距離も、
測ることができなくなる。

山は、
そのことを知っているかのように、
動くものと動かないものを
同じ場所に置いてきた。

それは、
何かを始めるための場所ではない。
決意を固める場でも、
勢いをつけるための場でもない。

始める前に、立つ場所だ。

立ち止まり、
流れを一度やり過ごし、
自分の足が
どの向きで地面を踏んでいるのかを確かめる。

測り、
距離を感じ、
姿勢を整える。

進むために止まるのではない。
止まるために止まるのでもない。

磐座は、
流れを遮る石ではない。
流れの中に、
基準を差し出す石だ。

だから、
ここに立つと、
人は自然と
次の一歩を意識してしまう。

どちらへ進むのか。
どの速さで進むのか。
それを決める前に、
まず、立ち位置が整えられる。

磐座は、
止まるための石ではない。
進むための基準点として、
ただ、そこに在る。

流れ続ける世界の中で、
一度だけ、
自分の向きを測り直すために。

苔むした岩の間を流れる渓流。絶えず形を変えながら進み続ける山の水。
止まらずに進む流れは、立つ場所を与えてはくれない。

現代への問い──どこに立って始めるのか

現代は、
始める速度が速い。

思いついたら動く。
決めたらすぐ実行する。
立ち止まるより、
試したほうが正しいとされる。

目標は数値に変換され、
行動は効率で評価される。
進捗は可視化され、
成果は比較され、
速さそのものが
能力の指標のように扱われる。

動くこと自体が、
価値になりやすい。

けれど、
立つ場所を確かめないまま
始めた動きは、
どこへ向かうのか。

前に進んでいるつもりでも、
実際には
流れに押されているだけかもしれない。
速く動いているようで、
同じ場所を回り続けている
可能性もある。

磐座は、速さを裁かない。
ただ基準点を差し出す。

この場所から見て、
その一歩は
どんな距離にあるのか。

どれくらい離れていて、
どれくらい踏み込もうとしているのか。
それは、
自分の身体が引き受けられる速度なのか。

磐座は、
選択を奪わない。

進むか、
立ち止まるか、
向きを変えるか。

その判断を、
すべて人に返したまま、
ただ、
立ち位置だけを示している。

現代において、
それは不親切にも見える。

けれど、
答えを先に渡さないからこそ、
人は自分の感覚を使わざるを得なくなる。

どこに立って始めるのか。
どの距離感で進むのか。

その問いは、
今も変わらず、
石の前に
静かに置かれている。

蓼科大滝で、岩の間を流れ落ちる滝を少し距離を取って見た景色。
近づきすぎないことで、全体が見えてくる。

余白──測るための距離

近づきすぎれば、
意味を押しつけてしまう。

名前を与え、
役割を決め、
扱い方を定めた瞬間、
対象は人の側に引き寄せられる。
分かったつもりになるほど、
距離は失われていく。

遠ざかりすぎれば、
今度は、
ただの風景になる。

視界の一部として流され、
立ち止まる理由を失い、
意識の外へと押しやられる。
在ることは見えていても、
関わる感覚は消えていく。

磐座が保たれてきたのは、
そのあいだの
わずかな距離だ。

触れられるほど近く、
所有できないほど遠い。
意味づけが始まる直前で、
踏みとどまる距離。

語りすぎず、
使いすぎず、
決めつけない。

説明を重ねないこと。
便利にしないこと。
正解を与えないこと。

それらは、
何もしないという選択ではない。
関係を壊さないための、
積極的な判断だった。

測るための余白を、
あえて残す。

人は、
余白があるからこそ、
自分の位置を測ることができる。
距離が固定されてしまえば、
測る行為そのものが不要になる。

磐座は、
答えを減らすことで、
関わりを長く保ってきた。

それが、
長く続いてきた理由なのかもしれない。

蓼科の渓流で、水が流れ続ける中に静かに佇む苔むした岩。
流れの中で、動かないものが残る。

結び──基準点として、そこに在る

ここは、
始まりの場所ではない。

目標が掲げられるわけでもなく、
決意が生まれることを
期待されているわけでもない。
出発点として
整えられた場所でもない。

けれど、
始まりを生んでしまう場所だ。

何も始めない石の前で、
人は勝手に
始めてしまう。

何かを誓わなくても、
何かを決めなくても、
ただ立っているうちに、
自分の向きや距離を
意識してしまう。

今年、何を始めるか。
多くの人が、
年の初めに投げかける問いだ。

けれど、その前に、
もうひとつ、
静かに置いておきたい問いがある。

どこに立って始めるのか。

速さを選ぶ前に、
方向を定める前に、
自分の足が
どの地面を踏んでいるのかを
確かめる。

その基準点を、
この石の前に
そっと置いてみる。

立ち位置を測り直すという行為が、
知らないうちに次の一歩の質を変えていく。

年は、勢いから始まるのではない。
計画からでも、決意からでもない。

動かないものの前で、
一度、姿勢が整えられるところから、
静かに始まっていく。

磐座は今日も、
何も語らず、
何も促さず、
ただ基準点として
そこに在り続けている。

その沈黙の前で、
人の時間だけが、
ゆっくりと
新しい向きを選び始める。

蓼科の森で、岩を抱くように根を張る木と、苔むした地面。
基準点は、意志ではなく時間によって育っていく。

🌿 コラム補足メモ

──磐座は、答えを与える存在ではありません。
──何かを始めさせる装置でもありません。

動かないことで、人の立ち位置を測らせてきた基準点。
願いより先に、「いま、どこに立っているのか」を返してくる場所。

足す前に、測る。
走り出す前に、立つ。

この石は今日も、何も語らず、ただそこに在り続けています。
変わるのは石ではなく、その前に立つ私たちの側です。

情報参考リンク

横谷渓谷 大瀧神社 蓼科大滝

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