~出雲に行かない神と、諏訪に残る問い~
導入──出雲に行かない神の不思議
旧暦十月。日本各地では「神無月」と呼ばれ、八百万の神が出雲に集う──。
ところが信濃・諏訪だけは違う。ここでは十月を神在月と言い、“神はこの地にいる”と信じられてきた。
なぜ諏訪だけが、出雲と肩を並べて「在る」側なのか?
その答えは、湖と山、氷と風のあいだに息づく一柱──出雲へ赴かないほど巨大な龍神の物語にある。
諏訪湖のほとりには、龍神が「尾はまだ信濃に掛けてある」と告げ、諏訪に留まったという古い語りが残る。
冬、湖面を走る隆起は御神渡りと呼ばれ、神が渡った道として占われてきた。伝承は昔話で終わらない。
御神渡りの観察は半千年以上続き、信仰が気候データを生んだ──信仰と科学が交差する場がここにある。
諏訪の龍神は、記紀に登場する建御名方(たけみなかた)神の武の面影と、中世に膨らんだ甲賀三郎の竜蛇譚が折り重なって立ち現れる存在だ。火山の記憶を抱く守屋山、風が雲を運び、水が湖へ帰る循環の只中で、自然=神という直感が、祈りと観察の双方を育ててきた。
出雲は「集う神々」の都、諏訪は「留まる龍神」の座。二つの神在月は日本の信仰の多様さを照らし合う鏡でもある。
この地で「神は在る」と言い切れるのは、伝承だけの力ではない。氷が割れる音、雲の流れ、湖面に走る筋、古文書に刻まれた年ごとの記録──それらのすべてが、見えないものを見える手触りへと変えてきた。
諏訪の物語は、神話と科学、象徴と事実を対立させず、重ね合わせて生きる術を静かに示している。

尾掛松と「出雲に行かない龍神」
「諏訪の龍神は体があまりに大きく、出雲の神殿には収まりきらなかった」──。
そう語り継がれる民話は、諏訪の土地に深く根づいている。旧暦十月、出雲に神々が集まるとき、諏訪の龍神も招かれた。しかし、他の神々が容易に集まれるのに対し、諏訪の龍神はあまりに巨大で、その姿をどこにも納めきることができなかった。出雲の神々は困り果て、ついにこう告げる。
「あなたほど大いなる御身は、無理に出雲へ赴く必要はない。この地にとどまり、土地を護られるがよい。」
そのとき、龍神は静かに応えたという。
「尾はまだ信濃に掛けてある。」
この一言は、単なる方便ではなく、「龍神の身体そのものが信濃の大地と一体である」という象徴でもあった。諏訪を離れることは、大地そのものを離すに等しい──だから龍神はここに留まるしかないのだ。
この伝承は後世にまで強い影響を残した。下諏訪町の杉の木神社には、龍神が尾を掛けたとされる「尾掛松」が今も残り、訪れる人々にその言い伝えを伝えている。また、諏訪市「大和(やまと)」、下諏訪町「高木(たかぎ)」といった地名は、その地名は龍神伝承と結びつけて語られることが多く、地名そのものが信仰の痕跡となっている。つまりこの土地では、地名=神話の記憶なのだ。
出雲では「神々が集う」ことに重きを置くのに対し、諏訪では「神が留まる」ことが強調される。その根拠として語られる「尾掛松」の存在は、諏訪の人々にとって、龍神が決してこの地を離れないという誇りであり、土地と神が不可分であるという信仰の証となった。神在月の特異性は、単に出雲との対比ではなく、「諏訪という土地が龍神そのものの居場所である」という意識の表れに他ならない。

御神渡りと龍神信仰の交差
■ 観察としての御神渡り
厳冬、諏訪湖が一面に凍りつくと、氷が裂けて盛り上がり、山脈のような筋が湖面を走る。これが御神渡りである。人々はそれを「神の道」と呼び、上社の男神が下社の女神へ通った跡、あるいは龍神が湖を渡った証として畏れ敬った。氷の向きや長さ、割れ方は一年の吉凶を告げる兆しとされ、丹念に記録されてきた。御神渡りは、自然現象であると同時に、神と人を結ぶ言葉なき対話の場だった。
■ 信仰と科学の橋
この観察は単なる民間信仰にとどまらない。1443年以来、約6世紀にわたって連続記録が続き、世界でも稀な長期観測として今日では気候変動研究に活用されている。宗教的営みが科学的データへと転化した例である。近年は結氷条件が厳しく不出現の年もあるが、記録そのものは途絶えない。
氷が裂ける轟音には龍のうねりが、盛り上がる稜線には龍の背が重ねられた。信仰の眼差しは自然を物語へと変え、物語は人々の心を形づくってきた。現代の研究者はそこに「気候データ」を見いだし、地域の人々は今も「龍神の気配」を感じ取っている。古代と現代、信仰と科学──その両者をつなぐ橋渡しこそ、御神渡りの本質なのだろう。

二重のルーツ:建御名方神と甲賀三郎
諏訪の龍神には、二つの大きな物語が重なり合っている。
ひとつは『古事記』『日本書紀』に記された建御名方神(タケミナカタ)の伝承である。
建御名方神は大国主命の子として国譲りの交渉に臨んだが、建御雷神との力比べに敗れ、信濃の地まで逃れた末に「ここから二度と出ない」と誓ったとされる。
その言葉は「諏訪大社の神が諏訪を離れない」理由として、後世に深く刻まれた。
戦いの神として武勇を象徴すると同時に、風や水を司る性格をも併せ持ち、龍神としての側面が古代から意識されていたと考えられている。
湖と山、風と水に囲まれた諏訪という土地柄に、この神の性質は見事に重なり合っていた。
もうひとつは、中世以降に広まった甲賀三郎伝説である。
近江の武士・甲賀三郎が不思議な因縁から地底の迷宮をさまよい、再び地上に姿を現したときには、すでに人の姿を失い、巨大な蛇すなわち龍と化していたという。
この物語は、諏訪の神を「人から龍へ」という劇的な変貌の物語として語り直すものであり、時代の混乱の中で諏訪氏の支配権を神話的に補強する役割を果たしたとも考えられている。
単なる怪異譚ではなく、土地の支配と信仰を正当化するための物語としての色彩が強い。
建御名方神と甲賀三郎。時代も背景も異なる二つの物語だが、どちらも共通しているのは「諏訪明神=竜蛇神」という信仰である。
諏訪大明神はしばしば龍や蛇の姿に変化するとされ、社寺には龍の彫刻や絵図が数多く残されている。
江戸期に描かれた古文書や絵巻には、龍へと姿を変える諏訪明神の姿が鮮やかに残され、地域の人々の信仰の対象であり畏怖の象徴であったことがわかる。
つまり、諏訪における龍神信仰は「古代神話の系譜」と「中世の伝説」の二重のルーツを持ちながら、時代ごとに形を変えつつも、一貫して「龍=諏訪の守護」というイメージを受け継いできたのである。

出雲との対比:二つの「神在月」
旧暦十月、出雲大社では「神在祭」が営まれる。全国から神々が集まり、人と人との縁、国と国との結びつき、さらには自然との調和までも議題にされると伝わる。だからこそ、日本中が「神無月」と呼ぶ中で、出雲だけは「神在月」と呼ぶのである。そこには「神々が一堂に会して相談する場」という、開かれた集合の思想が宿っている。
一方、諏訪の「神在月」は、まったく異なる根拠に立っている。諏訪大明神は龍神としてあまりに巨大であり、出雲に赴くことができない。そのため、龍神は諏訪に留まり続け、「この地から動かない神」として崇められてきた。つまり、諏訪において「神在月」とは、神々が集うのではなく、ただひとりの絶対的な存在が留まることを意味しているのだ。
出雲の「神在月」が「集合と交流」の象徴であるのに対し、諏訪の「神在月」は「定着と不動」の象徴である。どちらも「神在月」という同じ言葉を用いながら、その意味は正反対である。まるで、ひとつの日本の信仰世界が二枚の鏡となって、異なる姿を映し出しているかのようだ。
この対比は、単なる言葉の違いにとどまらない。出雲は「縁結び」という人間関係の網を重視する文化圏であり、諏訪は「龍神が土地を守る」という自然と一体化した信仰圏である。すなわち、出雲は「人と人を結ぶ神」、諏訪は「土地と人をつなぐ神」。両者の違いは、信仰が地域の風土に根ざし、多様に展開していくことを示す民俗学的な証左でもある。
神々が「集う」ことで力を発揮する出雲。
神が「動かない」ことで力を示す諏訪。
二つの「神在月」は、異なる思想を体現しつつも、どちらも人々に安心と誇りを与える存在であった。
ここで問う。
神々が「集う」力と、神が「留まる」力──私たちはどちらに拠って生きているだろう。
小括:出雲は縁を編む都、諏訪は土地と結ぶ座。同じ「神在月」が異なる神学を照らし出す。

現代への継承
龍神信仰は決して過去の遺産ではない。
現代の諏訪においても、その精神はさまざまな形で息づき、新しい姿へと進化を遂げている。信仰の場は神社だけにとどまらず、地域企業、教育、観光、そして学術研究の領域にまで広がりを見せている。
絵本と龍神プロジェクト
長野県を拠点とするラーメンチェーン「みんなのテンホウ」の大石壮太郎社長は、龍神伝説を次世代に伝えるべく絵本『諏訪の龍神さま』を制作した。龍神を親しみやすいキャラクターとして描き出すことで、子どもたちが自分たちの足元に息づく伝承を自然に学べるよう工夫されている。さらに、大石氏は「龍神プロジェクト」を立ち上げ、龍神スポット巡りや地域資源を活かした商品の開発を進めている。ラーメン店の枠を超えた地域文化への貢献は、まさに「現代の民間信仰の担い手」としての役割を果たしている。
大石氏は、「子どもたちが自分の足元の物語を誇れるように」という思いで絵本と巡りを企てたという。
八剱神社の御神渡り観察
下諏訪町の八剱神社は、室町時代から続く「御神渡り」の記録を583年間にわたり欠かさず続けている。宮司・宮坂清氏は古文書を丹念に読み解き、科学者たちと連携しながら、気候変動の研究に貴重なデータを提供してきた。信仰の営みがそのまま科学的観測となり、国際的な気候学の研究に資するという事例は極めて稀だ。宮坂氏は「神の道を記すことは、信仰を守ることでもあり、人類の未来に責任を果たすことでもある」と語っている。ここには、宗教と科学が矛盾なく共存する、諏訪ならではの伝統の力強さがある。
宮司は、記録を「神の道を記すことは、未来への責務」と位置づけ、信仰と観測を矛盾させない。
観光資源化と新しい体験
近年、諏訪湖周辺では「龍神パワースポット巡り」や「御神渡り観察ツアー」が盛んに企画され、観光と信仰が交差する新しい空間が生まれている。龍神をテーマにした御朱印や、龍の姿をモチーフにした土産物も人気を集め、地元経済に潤いをもたらしている。単なる観光消費にとどまらず、参加者が「信仰を体験する観光」として龍神に触れることで、土地と人との結びつきが再確認されているのだ。
こうして、龍神信仰は「祈りの文化」としての伝統を守りながら、「地域振興のエンジン」としての役割も担いはじめている。古代から連綿と続く物語は、時代を超えて形を変え、現代の諏訪に確かに生き続けているのである。
旅人は“映える景色”だけでなく、体験としての信仰に触れる機会を得つつある。
結び──龍神は今も諏訪にいる
旧暦十月。出雲に神々が集う夜も、諏訪には龍神がいる。
それは伝説だけではない。
氷の音。雲の流れ。書き継がれた年記。祈る人の背。
見えないものは、見ようとする手つきで見えてくる。
龍神は昔話の登場人物ではない。
大地と人のあいだに立ち、時代ごとに姿を変えながら息づく「生きた物語」だ。
朝の湖面に龍雲を見たなら、ただ一歩、立ち止まる。
その一瞬が、問いを私たちに戻してくれる。
──あなたはいま、この世界をどう生きるのか。
出雲へ集う神。諏訪に留まる神。
二つの在り方のあいだに、私たちの選択がある。
やがて子どもたちは絵本を通じて龍神に出会い、旅人は御神渡りを目にして心を震わせ、研究者は記録の中から未来の知を見出すだろう。
そのすべてがひとつにつながり、龍神は今日も「ここにいる」と告げ続けている。
諏訪の湖面に昇る朝日を仰ぐとき、あるいは氷の道に祈る人々を見つめるとき、私たちは知る。
龍神は今もこの地にいて、静かに、しかし確かに世界を見守っているのだと。

コラムの補足メモ(2025年の神在月)
──なお、2025年の旧暦十月(神在月:諏訪)は、11月20日〜12月19日にあたります。
この時期、諏訪の各社は静かに“神の気配”を深める季節へと入ります。
神話の中心地としては出雲が語られますが、諏訪では“来る/去る”ではなく、
“ずっとそこに在り続ける” という時間の流れが、呼吸のように息づいています。
(※この記事の公開日は 11月24日。今まさに諏訪は「神在月」のただ中にあります。)
参考情報リンク
| 八釼神社 | 手長神社・龍王大明神 | 杉の木神社・尾掛松 |