〜時計が去ったあと、この土地に残ったものを訪ねる
かつて東洋のスイスと呼ばれた諏訪。だがこの土地は、もう時計の街ではない。
腕時計の量産が去ってから、諏訪のものづくりはどこへ向かったのか。
看板が下りたあとに残ったものを辿ると、その呼び名が過去をなつかしむ言葉ではなかったことが見えてくる。
諏訪は、もう時計の街ではない
諏訪を旅すると、湖があり、神社があり、温泉がある。
その風景の写真を撮り、 温泉に浸かり、 蕎麦を食べて帰る。
それで十分に満たされる土地だ。
けれど、その風景のすぐ裏側に、
もうひとつの諏訪が広がっていることに、 気づく人は、そう多くない。
工場の諏訪である。
湖を取り囲むように、 住宅と田畑のあいだに、 無数の工場が点在している。
派手な看板はない。 観光案内にも、ほとんど載らない。
だがその建物の中で、 いま、この瞬間にも、
世界のどこかで動く機械の部品が、 静かに削られ、磨かれている。
かつてこの土地は東洋のスイスと呼ばれた。 時計の街だった。
だが正確に言えば、 諏訪はもう、時計の街ではない。
かつて街のいたるところにあった時計づくりは、大きく姿を変えた。
量産の主力は海を渡り、国内に残った腕時計づくりも、いまは塩尻など一部に集約されている。
看板は、下りたのだ。
ふつうなら、ここで話は終わる。 基幹産業が去り、
街が縮んでいく。 そういう筋書きを、私たちは何度も聞いてきた。
だが諏訪の場合、 話はそこで終わらなかった。
時計が去ったあとも、 諏訪は、つくり続けている。
問いは、ここから始まる。
──時計が去ったあと、 諏訪に何が残ったのか。
その残ったものの正体がわかったとき、
東洋のスイスという呼び名が、
過去をなつかしむ言葉ではなかったことが、 見えてくる気がする。

時計の街は、時計の街でなくなった──看板が下りた日
諏訪に時計産業が根づいたのは、
戦中から戦後にかけてのことだ。
戦争の只中、 空襲を避けるため、
精密機械の工場が東京から疎開してきた。
そのひとつが、 のちのセイコーへとつながる流れだった。
第二精工舎が諏訪へ移り、 地元の大和工業と結びつき、
やがて諏訪精工舎、そして現在のセイコーエプソンへとつながっていく。
戦後、諏訪は時計づくりの一大拠点になった。
腕時計の組み立てと部品づくりを軸に、
無数の協力工場が、 湖のまわりに連なった。
歯車をつくる工場。
ゼンマイを巻く工場。
ねじ一本を削る工場。
それぞれが小さな部品を受け持ち、 持ち寄り、組み上げる。
街全体が、
ひとつの時計のように、
噛み合って動いていた。
朝になると、人々が工場へ向かう。
小さな部品を、来る日も来る日も削る。
夕方になると、家へ帰る。
その繰り返しの上に、
「時計の街・諏訪」があった。
その風景が変わりはじめるのが、1980年前後である。
時計づくりの中心は、やがて諏訪を離れていった。
セイコーエプソンは、普及価格帯の腕時計を海外で量産するようになり、
事業の軸足も、プリンターなどの情報機器へと移していく。
腕時計づくりそのものが消えたわけではない。
いまも塩尻の工房では、高級腕時計が開発から組み立てまで一貫してつくられている。
ただ、かつてのように街全体が時計で動く——そういう『時計の街・諏訪』では、もうなくなっていた。
世界に知られた「時計の街」という名前が、
ある時期を境に、 静かに薄れていった。
外から見える目印が、消える。
そういうことは、たしかに起きた。
だが、外から見えるものだけが、
その土地のすべてではない。
表の名前が薄れたあとにも、
まだ何かが残っていた。
それが何なのかを知るには、
もう少し時間をさかのぼる必要がある。
💬「表の名前は薄れた。だが、その下にあったものは、消えていなかった。」

諏訪は、二度作り変えられた土地である
諏訪の産業史を、少し引いて眺めてみる。
すると、ひとつの特徴が浮かび上がってくる。
この土地は、これまでに二度、
根本から作り変えられている。
一度目は、製糸業から精密機械工業への転換だった。
明治から大正にかけて、
岡谷を中心とする諏訪は、世界有数の製糸地帯だった。
繭から生糸を引き出す工場が、
湖のほとりにびっしりと並んでいた。
そこで生まれた生糸は、
横浜の港から海を渡り、
近代日本の外貨を支えていた。
当時の諏訪は、
すでに「世界とつながる土地」だったのだ。
だがその製糸業も、
昭和初期の世界恐慌や、
繊維需要の変動のなかで、衰退していく。
工場の機械は止まり、
建屋は空き、 多くの人が職を失った。
このとき諏訪は、一度目の危機を迎える。
ところが、その空いた工場の建屋、
動力の設備、 そして手を動かして働く人々が、
戦時に疎開してきた精密機械工業の、受け皿となった。
糸を紡いでいた場所で、
今度は精密な機械がつくられはじめる。
1940年代前後のことだ。
そして二度目が、
いま見ている転換である。
精密機械から、
より分散した産業構造への移り変わり。
中小企業基盤整備機構の調査研究は、
諏訪地域が二度の大きな産業転換を経験したと、
整理している。
二度目の転換のあと、諏訪の産業構造は、
特定の産業へ集中する形ではなくなった。
電機、電子部品、情報通信を中心としながら、
輸送機械や、医療機器など、
いくつもの分野へ枝分かれしていったという。
つまり諏訪は、
「ひとつの花形産業に賭ける土地」では、なくなっていった。
時計という単一の名前を手放すかわりに、
いくつもの分野へ、 静かに散らばっていったのだ。
一見すると、これは拡散に見える。
中心を失い、ばらばらになったように見える。
だが見方を変えれば、ひとつの産業の盛衰に、
全体が振り回されにくい構造でもある。
ひとつの柱が倒れても、ほかの柱が残る。
二度の転換をくぐり抜けた諏訪は、
いつのまにか、そういう土地になっていた。
作り変えられること。
それ自体が、この土地の性格になっていた。

時計が去って、残ったもの
二度の転換を貫いて、
変わらなかったものがある。
製品ではない。
製糸も、時計も、
製品としては、もうここの主役ではない。
残ったのは、もっと別のものだ。
手の構え、とでも呼ぶしかないもの。
たとえば、製糸業の現場では、
糸のほんのわずかな太さの違いを、
指先が感じ取っていた。
そのわずかな差を読む指先の感覚が、
やがて、金属部品の寸法を見極める感覚へと、
移っていく。
糸の太さを読む手は、
歯車やゼンマイの噛み合わせを読む手になり、
さらに、小さな金属部品を組む手になった。
別の素材、別の製品。
けれど、根っこにある指先の感覚は、
地続きだった。
時計の時代に諏訪が磨いたのは、
「細密な小物を、安定した品質で量産する」力だった。
ひとつだけ正確につくるのではない。
何万個つくっても、同じ精度で揃える。
それが、諏訪の強みだった。
中小機構の分析も、1980年代の諏訪のサプライヤー層が、競争力の中心としていたのは、
まさにこの「細密な小物の量産」を、安定して提供することだったと指摘している。
そして時計が去るとき、
諏訪の大企業は、
協力会社に、ある変化を促した。
自立せよ、という変化だ。
これまでのように、親会社に言われた部品を、
言われたとおりにつくるだけでは、立ちゆかなくなる。
自分で需要を探し、
地域の外から仕事を取ってくる。
そういう企業へ変わるよう、
求められたのだ。
きびしい変化だっただろう。
守られていた立場から、自分の足で立つ立場へ。
だがその過程で、
諏訪の中小企業は、「言われたとおりにつくる工場」から、
「自分で世界を相手にする工場」へと、すこしずつ変わっていった。
製品としての時計は去った。
だが、それを支えていた指先の感覚。
小さく、正確に、たくさん、狂いなく。
その感覚は、地域のなかに、しっかりと残った。
残ったのが、完成品ではなく感覚だったからこそ、
諏訪は、次の製品へ乗り換えることができた。
これが、二度目の転換の中身である。
💬「引き継がれたのは、時計ではなかった。時計をつくっていた手のほうだった。」

いま、世界とつながっている諏訪の精密
では、その手の感覚は、
いま、どこで動いているのか。
具体的に、見ていきたい。
これから挙げる技術には、ひとつの共通点がある。
どれも、生活者の目には映らない。
けれど、世界中の機械の内側で、たしかに動いている。
そういう技術ばかりだ。
ひとつめは、自動車である。
諏訪市の小松精機工作所は、
自動車エンジンの燃料噴射ノズルの先端にある、
「オリフィスプレート」と呼ばれる微細な部品で、
世界シェアの40%超を占めるとされる。
燃料をどう噴くか。
それは、燃費にも、排ガスにも、直結する。
エンジンの要だ。
その心臓部にある、小さな一枚の板。
そこに空いた、髪の毛ほどの穴。
その精度を、諏訪の微細加工技術が支えている。
私たちが車に乗り、
アクセルを踏むたびに、
諏訪でつくられた小さな部品が、
エンジンの奥で、働いている。
同じ自動車でも、
岡谷市のTPR──旧・帝国ピストンリングは、
もっと土台に近いところにいる。
エンジンの内壁をなすシリンダライナ。
ピストンを密閉するピストンリング。
そうした、エンジンの最も基本的な部品で、
TPRは世界トップクラスの位置にある。
ピストンリングは、
世界全体で、月に五千万本という規模で量産されている。
世界のほぼすべての、
自動車メーカー、二輪メーカーが、
この会社の部品を使っているという。
本社は東京にあるが、
その主力工場のひとつは、
いまも岡谷の地に置かれている。
エンジンの内側という、
誰の目にも触れない場所で、
岡谷の技術が、世界中の車を動かしている。
ふたつめは、光学だ。
諏訪市のライト光機製作所は、
ライフルスコープや双眼鏡をつくる、
光学メーカーである。
その売上の、ほぼすべてが輸出だという。
なかでもライフルスコープは、
米国の市場で、20%から25%のシェアを持つとされる。
特徴的なのは、そのほとんどが、
相手先ブランドによる生産だという点だ。
世界の一流ブランドの名で売られている、
高精度の光学機器。
その中身を、諏訪の工場がつくっている。
遠くのものを、歪みなく、くっきりと。
強い衝撃を受けても、狂わない。
そのレンズの見え味と堅牢さを支えているのが、
諏訪の光学技術だ。
ライト光機の名前は、表に出ない。
それでも、世界の質を、内側から支えている。
これもまた、見えない部品の話だ。
みっつめは、音と、独立の記憶である。
下諏訪町のニデックインスツルメンツは、
戦後すぐに、 三協精機製作所として創業した。
時計工場で旋盤の技術を覚えた人々が、
独立して興した会社の、ひとつだ。
最盛期には、
オルゴールで、
世界の90%を生産したと伝えられている。
世界中で鳴っているオルゴールの、
ほとんどが諏訪製だった時代が、
たしかにあったのだ。
その精密な加工技術は、
やがて、小型モーターや精密部品へと、
広がっていった。
諏訪のものづくりが、
「大企業に雇われる」だけのものではなく、
「自ら興す」ものでもあったことを、
この会社の歩みは、静かに示している。
外からは見えなくなった諏訪は、
こうして、 自動車のエンジン、
世界中の高精度な光学機器、
無数の機械のモーターという、
内側の場所で、いまも世界とつながっている。
💬「諏訪の技術は、名前を出さない。ただ、世界の機械の内側で働いている。」
なぜ、引き継げたのか
ここで、最初の問いに戻りたい。
時計の精密加工技術が、
次の世代へ引き継がれた。
たしかに、そうだ。
だが、引き継がれたものの正体を、
もう少し、正確に言いたい。
引き継がれたのは、
「時計をつくる技術」そのものではない。
時計は、もう、
ここでは量産されていない。
引き継がれたのは、
もっと抽象的なものだ。
小さなものを、狂いなく、安定してつくる、
という、身体の構え。
そして、それを別の製品へ、移し替える力。
この二つだったように思う。
もし諏訪が、
「時計をつくる技術」だけを抱えていたら、
どうなっていただろう。
おそらく、時計が去ったときに、終わっていた。
時計が消えれば、時計の技術は、行き場を失う。
だが諏訪が抱えていたのは、
糸からも、時計からも独立した、
もっと深いところにある、精度への執着だった。
小さいものを、正確に。
何個つくっても、同じように。
その執着さえあれば、
対象が時計でなくても、かまわない。
だから、燃料噴射の部品にも、
ピストンリングにも、光学レンズにも、横へ移ることができた。
製品は乗り換えても、
精度は、乗り換えなかった。
二度の転換を生き延びた力の正体は、
皮肉なことに、「ひとつの技術に固執しなかったこと」にある。
ひとつの製品を握りしめていたら、
その製品とともに、沈んでいた。
握りしめず、構えだけを残して、手放した。
だからこそ、次へ移れた。
これは、諏訪の酒づくりにも似ている。
諏訪の街道沿いには、
古くからの酒蔵がいくつも並んでいる。
それらの蔵が残ったのは、
ひとつの味を守り抜いたからではない。
いつ仕込み、
どの水を使い、
どこで踏みとどまり、
どこを変えるか。
その小さな判断を、
何世代も重ねてきたからだ。
産業とは、判断の積層である。
諏訪のものづくりも、同じだった。
何を残し、何を手放すか。
その判断を、時代の変わり目ごとに繰り返してきた。
受け継ぐために、変えていく。
諏訪のものづくりは、
その逆説を、地でいってきた土地だと言える。
💬「握りしめれば、沈む。手放せば、次へ移れる。継承とは、変えることだった。」

東洋のスイスは、過去の栄光ではない
ひとつ、興味深いことがある。
東洋のスイスという呼び名を、
いま、最も誇らしく掲げているのは、 誰か。
観光案内でもない。
歴史資料でもない。
現役の企業たちなのだ。
ライト光機は、自社の言葉で、
「精密加工の聖地・諏訪」
「東洋のスイスから世界へ」と語る。
TPRも、世界のエンジンを支える部品メーカーとして、
岡谷の地に、 主力の工場を残し続けている。
彼らにとって東洋のスイスは、なつかしい昔話ではない。
いまも、世界と戦うための、
現在進行形の旗印だ。
時計の街という、表の名前は、たしかに薄れた。
けれど、その名前の下に隠れていた、本当の財産。
小さなものを正確につくり、
時代に合わせて、作り変えていく力。
それは、名前が薄れたあとも、
この土地で、生き続けている。
だから東洋のスイスは、過去の栄光ではない。
栄光であれば、
なつかしむしかない。
過ぎ去ったものとして、
写真の中にしまっておくしかない。
けれど諏訪が手にしたのは、
栄光ではなかった。
栄光ではなく、
作り変え続ける力のほうだった。
力は、なつかしむものではない。
いま、使うものだ。
私たちが諏訪を旅して、
湖や神社を眺めている、
まさにその時間にも。
すぐ裏側の工場では、
世界のどこかで動く機械の内側が、
静かに、正確に、つくられている。
見えなくなることは、
消えることではない。
諏訪のものづくりは、
見えない場所で世界を支えながら、
いまも、作り変えられ続けている。
それは、この土地が、
二度の転換をくぐり抜けて手にした、
いちばん深い宝物なのかもしれない。
神話や祭りだけが、
土地の記憶ではない。
工場の中で磨かれ、
作り変えられてきた手もまた、
たしかに、諏訪という土地の記憶なのだ。
💬「東洋のスイスは、過去を懐かしむ言葉ではない。いまも作り続けている、という宣言である。」

🔧 コラム補足メモ
諏訪の二度の産業転換について
本文で触れた「二度の転換」は、中小企業基盤整備機構のナレッジリサーチによる整理にもとづく。製糸業から精密機械産業への転換(1940年代前後)が一度目、精密機械からエレクトロニクスを中心とする分散的な産業構造へのシフト(1980年代前後)が二度目とされる。二度目以降の諏訪は、特定産業への集中度が低く、電機・電子部品・情報通信を軸に輸送機械・医療機器などへ枝分かれした構造を持つ。
「東洋のスイス」という呼称について
セイコーエプソンの創業史では、創業者・山崎久夫が「夏も湿度が低く、気象条件がスイスに類似している」として諏訪を精密機械工業の適地と考えた経緯が語られている。ただし「東洋のスイス」という呼称そのものの起源や普及の過程には諸説あり、定量的な比較にもとづく定説とは言いきれない。本記事では、地域で広く用いられてきた呼称として扱っている。
各社のシェア・規模の数値について
小松精機工作所の「オリフィスプレート世界シェア40%超」、TPRの「ピストンリング月産五千万本・シリンダライナ世界トップクラス」、ライト光機製作所の「米国ライフルスコープ市場シェア20〜25%」は、いずれも企業の公表資料・経営者の発言・業界報道にもとづく(数値は各社の公表・報道時点のもの)。製品分類や時期によって変動しうるため、本文では「とされる」「という」という表現にとどめている。ニデックインスツルメンツ(旧・三協精機製作所)の「オルゴール世界シェア90%」は、最盛期における歴史的な数値である。
セイコーエプソンと腕時計づくりの現在について
本文で「時計の街ではなくなった」と述べたが、腕時計づくりそのものが諏訪圏から消えたわけではない。セイコーエプソンの本社は現在も諏訪市にあり(登記上の本店は東京都)、事業の中心はプリンターなどの情報機器へと移った。一方、グランドセイコーのクォーツ・スプリングドライブモデルなどの高級腕時計は、いまも塩尻事業所の工房で、開発から組み立てまで一貫して製造されている。本記事の「時計の街ではなくなった」とは、街全体が時計産業で動いていた時代の構造が変わった、という意味である。
TPRについて
岡谷市に主力工場を置くTPR株式会社(旧・帝国ピストンリング株式会社)は、1939年に田中ピストンリング株式会社として設立された。前身は1908年創業の潤滑油販売業で、製糸業を出自とする企業ではない。本社は東京都千代田区。シリンダライナは世界トップクラスのシェアを持つとされる。
対象としたエリアについて
本記事で扱ったのは、岡谷市・諏訪市・下諏訪町を中心とする諏訪圏の企業である。諏訪周辺には、ほかにも世界的な競争力を持つ精密企業が数多く存在する。
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参考情報リンク
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📚 出典一覧
中小企業基盤整備機構 ナレッジリサーチ 「諏訪地域では、なぜ競争力維持が可能だったのか」
セイコーエプソン株式会社 企業情報・沿革(Our Journey)
株式会社小松精機工作所 公式サイト(自動車用微細加工部品、オリフィスプレート)
TPR株式会社 公式サイト・IR情報(ピストンリング、シリンダライナ)
株式会社ライト光機製作所 公式サイト(ライフルスコープ、光学OEM/ODM)
ニデックインスツルメンツ株式会社 公式サイト(旧・三協精機製作所、精密小型モーター、オルゴール)

